30.6.08

柘榴─Melograno



「ここしばらく、体の調子がすぐれません。でも、大したことはありません。少しあなたをお待ちしすぎているという、ただそれだけですから」 アンドレ・ジッド『狭き門』

''Da un pò di tempo, non mi sento bene. Però non è grave. E' soltanto perchè ti sto aspettando troppo''. André Gide ''La Porte etroite''

29.6.08

聖なる森─Sacred Grove


Viva fuy in Sylvis;
sum dura occisa securi;
Dum vixi, tacui,
mortua dulce cano
                                                   
わたしは森に静かに住んでいたが
ある日、残酷な斧で殺されてしまった
生きているあいだは口がきけなかった
死んでからは美しい歌をうたい続ける
                                                  
カスパール・ティーフェンブルッカー

28.6.08

第七の幻─Babel


L’anfora

E l’angelo che mi parlava venne fuori e mi disse: - Alza gli occhi tuoi e guarda ciò che vien fuori.
Ed io dissi: - Che cosa è mai?
Rispose: - E’ un’anfora che esce.
Poi soggiunse: - Questo è il loro occhio su tutta la terra. – In quel mentre un talento di piombo veniva portato ed ecco che una donna stava seduta dentro nell’anfora.
E disse: - Questa è l’empietà. – E la sospinse dentro nell’anfora e vi pose sopra in massa di piombo.
E alzai gli occhi e osservai ed ecco, due donne vennero fuori ventilando le ali: - avevan ali come di nibbio, e sollevarono l’anfora tra la terra e il cielo.
Ed io dissi all’angelo che parlava meco: - Dove trasportano esse l’anfora?
Rispose: - Nella terra di Sennaar per fabbricarle una casa e collocarla e stabilirla ivi nella sua propria sede.

Vecchio testamento - Zaccaria 5-5 ‘’L’anfora’’

わたしに語りかけた御使いが現れ、わたしに言った。
「目を留めて、そこに出てくるものが何であるか、よく見るがよい」
わたしが、「それは何ですか」と尋ねると、
彼は、「そこに出てきたのはエファ升である」と答え、
「それは全地を見る彼らの目である」と言った。
鉛の円盤が取り除かれると、エファ升の中にひとりの女が座っていた。
彼は、「それは邪悪そのものである」と言って、彼女をエファ升の中に投げ出し、エファ升の口に鉛の重しを置いた。
わたしが目を留めて見ると、ふたりの女が翼に風を受けて出てきた。彼女たちはこうのとりの翼のような翼を持ち、地と天の間でエファ升を運びさろうとしていた。
わたしに語りかけた御使いに、「彼女たちはどこにエファ升を持って行こうとしているのですか」と尋ねると、彼はわたしに答えた。
「彼女のため、シンアルの地に神殿を築こうとしているのだ。神殿が整えられると、その地に備えられた場所に置かれるはずだ」
                             
                                 旧約聖書 ゼカリヤ書 5・5 「第七の幻」より

26.6.08

愛の法則─Eros e Psyche



La regola dell’amore

Quando mi sorridi,
quando mi parli
e quando mi dai una mano,
ci sono io dentro di te,
quel ‘’io’’ sono vera io.

Se non ci fosse il tuo sguardo non potrei esistere.

Ti sorrido,
ti parlo
e ti do una mano.
A te che stai dentro di me
con il mio sguardo.

Non mi dimenticherò mai questa regola dell’amore.
E’ da porgere davanti con franchezza.


愛の法則

あなたが微笑み返してくれる時
あなたが語りかけてくれる時
あなたが手を差し伸べてくれる時
あなたの中にいるわたし
それが本当のわたし

あなたの眼差しがなければわたしはいない

微笑みかけてみよう
語りかけてみよう
手を差し伸べてみよう
わたしの中にいるあなたへ
わたしの眼差しが届くところまで

決して忘れない これが愛の法則だということを

両手にのせて、真直ぐ前に
差し出さねばならないものだと いうことを


24.6.08

金色の魚─Pesce d'Oro


Pesce d'oro

Da quanto tempo,
forse da prima di nascere,
stavo cercando qualcosa di fatale.
Ero una sleeping gypsy,
giravo tutto il mondo sognando.
Soltanto adesso mi sono svegliata.

E' caduta una stella in un ruscello ed è nato un pesce d'oro.
E' una predestinazione scritta da migliaia d'anni fa.

Dai, salta in quell'acqua dove c'è il pesce d'oro.


いつからだろう
たぶん生まれる前から
ずっと探していたものがあった

ようやく目覚めたスリーピングジプシー
世界中を旅してきたのは
ただ夢を見ていたかったから

小さな川に星が落ちて金色の魚が生まれた
何千年も前からわかっていたこと

さあ、飛び込もう、その川に
金色の魚のいる、その川に

22.6.08

記憶のなかの音─Nostalgia


 遠い過去、土のなか深く埋めてしまったものがあった。 そうしなくてはならなかったのは馬鹿げたことに囚われていたから。そして、その上に新しい世界を築いていこうと、じぶんに言いきかせた。

 土はまだ痩せていた。じぶんで十分に水を与える力もない。いくら陽が照ってくれても、干からびていってしまう。

 あの種は、長いあいだ真暗闇の中で、ひとりでもがいていた。けれども、ある日、反応したのだ。 「音」に。

 目を閉じて音の行方を追った。その方角にはじぶんを救ってくれるものがあると、確かに感じたからだ。すると、音は光のようにわたしの中へ入ってきた。

 わたしは、種が自力で芽吹くのをじっと待った。

 その芽は、綺麗な瞳でわたしを見つめた。まるで、なにもかも知っているかのようだった。そして、わたしを赦してくれた。

             
                 ああ わが春
                 ああ いつ
                 ああ いつ いつ
                 あなたの両腕のなかで
                 海と露に濡れて
                 わたしは目覚めることができるのだろう
                 ああ わたしがあなたの傍にいて
                 あなたの腰を抱けば
                 だれも あなたに触れることはできないだろう
                 わたしは あなたを守ることができる
                 うたいながら
                 わたしがあなたといっしょにいるとき
                 あなたがわたしといっしょにいるとき
                 いつ ああ いつ

                       ネルーダ『葡萄と風』より
 
Nostalgia

Nel lontano passato, l’ho sotterrato profondamente. Ho dovuto farlo, perchè ero presa da un pensiero assurdo, dicendomi poi di costruire un nuovo mondo al di sopra.

La terra era povera. Non avevo abbastanza forza di irrigarla da sola. Tanta luce la faceva disseccare soltanto.

Quel seme lottava da solo nel buio per tanto tempo. Però ha reagito un giorno al suono.

Con gli occhi chiusi l’ho inseguito. Ero sicura d’incontrare qualcosa che mi aiutasse a liberarmi. Allora il suono mi è penetrato come se fosse la luce.

Aspettavo con pazienza la sua gemma spontanea.

Il bocciolo con gli occhi limpidi mi ha dato uno sguardo. Sapeva già tutto, poi mi ha perdonato.

18.6.08

21世紀の七夕伝説


七夕の、あの天の川はいったいどこへ行ってしまったのだろう。あれは、夜空のどこかにある「伝説」の川でしかないのだろうか。

 「本当の天の川は、地上にあるんだよ」

 毎年、七夕のたびに、わたしの中で聞こえてくる声があった。ブエノスとコロニアを分かつラプラタ川は銀の川、つまり銀河、天の川のことだ。地上の天の川は、ラプラタ川のことだったのだろうか。

 2007年7月7日、わたしは、ブエノスからイタリアへ向かう飛行機の中だった。ラプラタ川、大西洋、そしてアフリカ西岸からサハラ砂漠、さらに北上して北アフリカから地中海へと、わたしの天の川は、ラプラタ川を皮切りに、地球をぐるりと周り始めていた。

 生まれて初めて見たサハラ砂漠は、温かくて柔和な色をしていた。羊のような雲に砂の色が反射して淡いピンクに染まっていた。きっと、砂漠の民のこころは、あんな色に違いないのだ。この砂漠の砂は、忘れられた伝説を思い出してもらいたくて、だれかが拾いに来てくれるのを待っている、天の川の星かも知れない。

         あなたは渇いた砂漠のようなわたしに舞い降りた星の草
         しっかりと抱きとめて胸の中にしまっておきたい星の草
         わたしには、雨を待つことしかできないけれど
         やがて樹となり緑となって、わたしを覆ってください
         そして、わたしの永遠の憩いの場となってください
                                                                
                                                                 
Tanabata del secolo XXI

Dov’è sparita la Via Lattea di Tanabata? E’ appesa unicamente nel cielo notturno come un fiume leggendario?

‘’La vera via lattea esiste sulla terra’’.

Ogni anno, quando arriva il giorno di Tanabata, sento delle voci dentro di me. Il fiume La Plata che separa Buenos Aires da Colonia scritto in giapponese rappresenta la galassia, cioè la Via Lattea. Il fiume sulla terra sarebbe questo Rio della Plata?

Il 7 di luglio del 2007, ero nell’aeroplano diretto verso l’Italia da Buenos Aires. La Via Lattea mia ha cominciato a girare il globo partendo dal Rio della Plata. Dall’oceano atlantico entra al Sahara dalla costa occidentale africana, continua verso il nord dell’Africa e attraversa il Mediterraneo.

Il Sahara, visto per la prima volta, aveva il colore caldo e dolce. Rifletteva il rosa antico sulle nuvole a pecorelle. Deve essere così tenue come questo colore il popolo del deserto. Le sabbie del Sahara stanno lì ad aspettare qualcuno che venga a raccogliere per fargli ricordare quella legenda antica dimenticata, sono le stelle cadute dalla Via Lattea.

Tu sei la stella verde scesa nel mio deserto.
Voglio custodirti gelosamente.
Non posso fare altro che aspettare la pioggia.
Mi coprirai con bella chioma.
Diventerai il mio oasi eterno.
             

17.6.08

海と月─Il mare e la luna


その月は、ずっと昔から海に恋焦がれていました。
その海も、ずっと昔から月に恋焦がれていました。

「わたしは、もっとやさしくならなくては。抗ってはいけないのです」
「その傷が癒えれば、すべてを赦せるようになるでしょう」
「あなたがいてくれさえすれば」
「ええ、ここにいます。いつまでも、ここに」

ある日、太陽が海にやきもちを焼いて赤く燃え上がりました。
海は、焼けるような熱さに耐えきれずにこう言いました。

「あなたに、もっとそばにいて欲しい・・・」

その声が天に届いたのか、ふたりは引き寄せられました。
そして、海と月は、永遠に抱き合っていきることになりました。 
                                                                 
                                              
     
Il mare e la luna

La luna era innamorata del mare.
Il mare era innamorato della luna, anche.

‘’Dovrei essere più tollerante. Non dovrei andare incontro’’.
‘’Quando la tua ferita è guarita, potrai perdonare’’.
‘’Se soltanto stessi tu...’’
‘’Sì, ci sono qui per sempre’’.

Un giorno il sole si è infiammato per la gelosia.
Il mare non poteva più resistere al calore cocente.

‘’Se tu stessi più vicino a me’’, dice il mare.

Avrà sentito il cielo questa voce, si sono avvicinati e abbracciati.
Così viveranno insieme eternamente.

* Il mare e la luna in carattere giapponese, quando sono uniti rappresentano la medusa.

16.6.08

マリア─みどり色の蛇


みどり色の蛇

仮面のいただきをこえて
そのうねうねしたからだをのばしてはふ
みどり色のふとい蛇よ、
その腹には春の情感のうろこが
らんらんと金にもえてゐる。
みどり色の蛇よ
ねんばりしてその執着を路ばたにうゑながら、
ひとあし ひとあし
春の肌にはひつてゆく。
うれひに満ちた春の肌は
あらゆる芳香にゆたゆたと波をうつてゐる。
みどり色の蛇よ、
白い柩のゆめをすてて、
かなしみにあふれた春のまぶたへ
つよい恋をおくれ、
そのみどりのからだがやぶれるまえで。
みどり色の蛇よ、
いんいんとなる恋のうづまく鐘は
かぎりない美の生立をときしめす。
その歯で咬め、
その舌で刺せ、
その光ある尾で打て、
その腹で紅金の焔を焚け、
春のまるまるした肌へ
永遠を産む毒液をそそぎこめ。
みどり色の蛇よ、
そしてお前も
春とともに死の前にひざまづけ。
             
 大手拓次 『球形の鬼』より         

                   

14.6.08

皆既月食の蝶─Mariposas en el día del eclipse


 一生のうちに、じぶんの誕生日が皆既月食にあたる回数はどれだけあるだろう。2004年の誕生日、わたしはブエノスで皆既月食を体験した。その日の天空では、ハーモニックコンコーダンス(惑星が正五角形を形成する)もどうじに起こっていた。あの夜の月は、ロドクロシータのような色をしていた。



 ロドクロシータは、数百万年前に生成された鉱石のこと。アンデス山脈付近のカタマルカのアンダルガラ(高度3千メートル)で採掘される。別名を「インカの薔薇(Rosa del Inca)」という。



 
 インカの薔薇は悠久のときを脈打っている。皆既月蝕には、その山は緋色に輝いて見えるのではないだろうか。そして、その上を舞うのは太古の蝶(魂)たち。「インカの薔薇」には、無条件の愛の力があるという。                                                        
                                                              
Mariposas en el día del eclipse

Quante volte nella vita coincide il compleanno al giorno dell’eclissi lunare? Il mio compleanno del 2004 è caduto proprio all’eclissi a Buenos Aires, in più nel cielo, i cinque pianeti si stavano formando un pentagono regolare, un fenomeno astronomico chiamato ‘’la concordanza armonica’’. La luna di quella notte aveva il colore di rodocrocita.

Rodocrocita è un minerale formato qualche milione di anni fa e viene estratto ad Andalgala di Catamarca, a quota 3000 metri vicino alla Cordigliera delle Ande. Ha un altro nome ‘’Rosa dell’ Inca’’.

La rosa dell’Inca pulpita nelle vene della montagna dall’antichità più remota. Alla notte dell’eclissi, si illumina del colore scarlatto. In alto si vedrà svolazzare le antiche mariposas(psyche). Dicono che questa pietra tiene l’energia per l’amore incondizionato.

                 

8.6.08

夕暮れどきのひとびと─Los Hombres del Atardecer


 ニューヨーク転勤が決まったマルコのお餞別に絵を贈ることにした。マルコから連想するものというと、ブラピとジョニー・ディップと陸上の三段跳び(彼はイタリア代表選手)くらいで、実際のところ、彼の実体はまったくつかめていない。

 実は、ここのところずっと気になっていたものがある。それは、ギリシャ人の友人宅にあったエトルスキの彫刻"L'Ombra della Sera"だ。エトルスキというと、ギリシャ文化と同じくらいローマに影響を与えた文化を持っていたわけだけれど、ギリシャの男性中心社会とは違って女性の評価が高かったようだ。

 この彫刻は、トスカーナ地方のヴォルテーラにあるグァルナッチ美術館に保存されている。この出土品の命名は、詩人ガブリエレ・ダヌンツィオ。じっと見ていると日没のときにできる長い影のようだから、この名がついたのだそう。

http://www.teatro.org/rubriche/prosa/dettaglio.asp?id_news=9670

 マルコとエトルスキ、あるいはジャコメッティ(この彫刻によく似たものをジャコメッティが制作している)、なんの接点もないのだが、ピンときたものを描くしかないので仕方がない。

 L'Ombra della Seraというのは、イタリア語で「夕暮れどきの影」という意味だが、このOmbra(影)に似た発音でスペイン語にHombre(ひと、男性)というのがある。 それで、ニューヨーカーの洗練されたイメージをエトルスキの彫刻にオーバーラップさせて、もじって、Los Hombres del Atardecer(夕暮れどきのひとびと)。

 わたしは、まだニューヨークには行ったことがないのでなんとも言えないけれど、こんなひとびとに囲まれているような気がするんじゃないかと思う。
 
Los Hombres del atardecer
                                             
Ho deciso di fare un quadro ricordo per Marco, per il suo trasferimento. Andrà a NY. Quando penso a Marco, mi viene in mente Brad Pitt e Jonny Depp, poi il salto triplo. Per dire la verità, non lo conosco bene!

Negli ultimi giorni, c’è una cosa che non riesco a togliermi dalla mente. E’ la scultura etrusca ‘’l’Ombra della Sera’’ che ho vista da mia amica greca. Gli etruschi influenzavano i romani tanto come i greci e la loro cultura era abbastanza matriarcale.

Questa scultura è conservata al museo Guarnacci di Volterra in Toscana. Ha dato il nome ‘’L’Ombra della Sera’’ il poeta Gabriele D’Annunzio. Sembra un’ombra lunga che si crea al tramonto, vicinanza della sera.

http://www.teatro.org/rubriche/prosa/dettaglio.asp?id_news=9670

Giacometti ha prodotto la scultura simile a questa. Però non trovo nessun rapporto tra Marco e Giacometti e gli etruschi.

In spagnolo, c’è una parola che si pronuncia come ombra, sarebbe ‘’hombre’’ che significa uomo. Gli uomini di NY raffinati mi danno l’impressione di ombra della sera. Non conosco ancora NY, però sarà pieno degli hombres del atardecer.

6.6.08

回転木馬─Giostra


 この冬、8年ぶりのお正月を日本で過ごした。地球を半周するのだから、帰国のルートはたくさんある。

 例えば、サンチャゴ(チリ)からトロント経由、サンパオロ(ブラジル)からニューヨーク経由、ヨーロッパならローマやパリ、マドリッド経由、ケープタウン(南アフリカ)からクアラルンプール経由というのもある。

 今回は、オークランド(ニュージーランド)からシドニー(オーストラリア)経由だった。てっきり、チリ上空から南太平洋を横断していくものとばかり思っていたが、機内のスクリーンには南極が映っていた。きのこかくらげのような形の南極大陸の周りに、南アフリカかのケープタウン、アルゼンチン最南端のウスアイア、そしてオークランドがちょこっと顔を出していた。飛行機はアルゼンチン東岸を南下して南極沿岸沿いにオークランドまで飛んだ。まるで、地軸の周りをくるりとひとまわりしたような旅だった。

 絵の上でもまだその余韻が残っていたようだ。

Giostra

Quest’inverno per la prima volta dopo 8 anni, ho passato il capodanno in Giappone. Ci sono tanti percorsi per girare il mezzo globo, da Buenos Aires fino a Tokyo.

Per esempio, da Buenos Aires a Santiago del Chile poi passando per Toronto, oppure per San Paolo facendo transito a New York, per l’Europa, via Roma, via Parigi o via Madrid. C’è anche via Città del Capo del Sudafrica passando per Kuala Lumpur.

Questa volta ho preso il percorso Oakland-Sidney.-Tokyo. Pensavo che dovessimo attraversare l’oceano pacifico sbarcando dal Chile, invece lo schermo nell’aereo dimostrava un’immagine strana. Attorno al continente che rassomigliava a un fungo o ad una medusa, affacciavano Città del Capo, Ushuaia (la città più sud del mondo) ed Oakland. L’aeroplano volava verso sud lungo la costa orientale argentina e si è diretto verso Oakland navigando sulla costa antartica. Questo viaggio mi è sembrato un giro attorno all’asse terrestre.

Sulla tela, mi sono sentita ancora la risonanza del viaggio.

5.6.08




たとえ、人間の不思議な言葉、
天使たちの不思議な言葉を話しても、
愛がなければ
わたしは鳴る銅鑼、響くシンバル。
たとえ、預言の賜物があり、
あらゆる神秘、あらゆる知識に通じていても、
たとえ、山を移すほどの
完璧な信仰があっても、
愛がなければ、
わたしは何ものでもない。
たとえ、全財産を貧しい人に分け与え、
たとえ、称賛を受けるために
じぶんの身を引き渡しても、
愛がなければ、
わたしにはなんの益にもならない。

愛は寛容なもの、
慈悲深いものは愛。
愛は、ねたまず、高ぶらず、誇らない。
見苦しいふるまいをせず、
じぶんの利益を求めず、怒らず、
人の悪事を数えたてない。
不正を喜ばないが、
人とともに真理を喜ぶ。
すべてをこらえ、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。

愛は、けっして滅び去ることはない。
預言の賜物ならば、廃れもしよう。
不思議な言葉ならば、やみもしよう。
知識ならば、無用となりもしよう。
われわれが知るのは、一部分、
また、預言するのも一部分であるゆえに。
完全なものが到来するときは、
部分的なものは廃れ去る。
わたしは、幼い子どもであったとき、
幼い子どものように語り、
幼い子どものように考え、
幼い子どものように思いを巡らした。
だが、一人前の者になったとき、
幼い子どものことはやめにした。
われわれが今、見ているのは、
ぼんやりと鏡に映っているもの。
「そのとき」に見るのは、
顔と顔を合わせてのもの。
わたしが今、知っているのは一部分。
「そのとき」には、じぶんがすでに完全に知られているように、
わたしは完全に知るようになる。
だから、引き続き残るのは、
信仰、希望、愛、この三つ。
このうち最も優れているのは、
愛。

パウロ 『コリント人への手紙』より

Amore

Se io parlassi le lingue degli uomini e degli angeli, e non avessi amore,
non sarei che un bronzo risonante, o un cembalo squillante.
E se avessi il dono della profezia, e conoscessi tutti i misteri e tutta la scienza,
e se avessi tutta la fede, sì da trasportar le montagne,
e poi mancassi di amore, non sarei nulla.
E se anche sbocconcellassi a favor dei poveri tutto quel che ho,
e dessi il mio corpo per esser arso, e non avessi amore,
non ne avrei alcun giovamento.

‘’L’amore è longanime, è benigno; l’amore non ha invidia; non agisce invanno;
non si gonfia; non è ambizioso; non è egoista, non s’irrita, non pensa il male;
non si compiace dell’ingiustizia, ma gode della verità;
soffre ogni cosa, ogni cosa crede, tutto spera, tutto sopporta.

L’amore nonmai vien meno; sian le profezie, termineranno; sian le lingue, cesseranno;
sia la scienza, finirà in nulla, poichè parzialmente conosciamo e parzialmente profetiamo,
ma quando venga ciò che è perfetto, il parzialmente finirà.

Quand’ero bambino, parlavo come bambino, pensavo come bambino,
ragionavo come bambino; ma fatto uomo, ho cessato i costumi del bambino.
In questo momento noi vediamo traverso uno specchio in enigma,
allora vedremo faccia a faccia; ora io conosco parzialmente,
allora conoscerò per intiero, come anch’io sono stato conosciuto.

Ora soltanto queste tre cose perdurano, fede, speranza e amore, ma la più grande di tutte è l’amore.

‘’La carità e i carismi – L’elogio della carità’’ Prima lettera ai Corinti XIII di Paolo

3.6.08

たそかれとき


黄昏どきは、「たそかれ」というように、そこにいるひとが誰なのかわからなくなる時分のこと。

他者である「かれ」にとっても同じように、こちらが識別できなくなる。

トワイライトの中で、「わたし」は「かれ」の存在を探し始める。そして、声で、肌で、確かめようとする。

海に陽が沈むとき、わたしたちの目には、ふたつがひとつに溶け合って映る。遠く離れているはずのものがひとつに見えるのは、そうであって欲しいという、わたしたちの願望なのだ。

「かれ」に「わたし」を確かめてもらいたいように、「わたし」も「かれ」を確かめたいのだ。

            見つけ出すことができたんだ。

            何をだい?   

            永遠さ。

            それは、太陽といっしょになった海なんだ。

                       アルチュール・ランボー
Crepuscolo

Al crepuscolo, perdo la silhouette del prossimo. Lo stesso succede a lui, non riesce a discernermi. Nell’oscurità del tramonto, comincio a cercare la sua esistenza con la voce, con il tocco.

Quando il sole tramonta all’orizzonte, crea una bella fusione di colori. Deve essere il mio desiderio di essere uniti, nonostante tutto la distanza stellare, che mi fa sembrare che il sole ed il mare siano fusi.

Voglio essere ricercata e voglio cercarlo.

Elle est retrouvée.

Quoi?

L’Eternité.

C’est la mer allée avec le soleil.

Arthur Rimbaud

1.6.08

朝の言葉と夜の言葉─Mother Sophia


 わたしが使う言葉で一番じぶんらしいと思うのは、朝の言葉だ。身体からそのまま出ていくような言葉には、インコーポラルでありながらコーポラルななにかがまだ残っているような気がする。

 言葉は一日が終わる頃になると次第に色褪せてくる。まるで酸素で腐食されるかのようだ。夜になると身体が覚える疲労感に似ている。

 最近、ラジオやテレビの直接的で攻撃的な言葉につい耳を両手で覆いたくなってしまう。言葉が単なる伝達ツール、通りの看板広告に成り下がり、それらに慣れてしまったじぶんにも、ときに恐ろしさを感じる。そして、そういった狂気に触れまいと耳を塞ぐことがしばしばある。

 言葉が丸みを失った、そんな風に思う。一方的ではなく丸みのある言葉というのは、刺さった棘を抜いてくれたり、冷たい手を握ってくれたりする。そういった言葉は、いったいどこから生まれるのだろう。

 子供の頃、初めて言葉を発したときのことを覚えているひとは少ないだろう。感覚を言葉に置き換えたとき、周囲のひとびとは歓喜したはずだ。言葉が全身から生まれたという記憶を蘇らせることができるひとは、言葉に命を与えることができる。わたしは、そのときのことを忘れてしまっている。言葉が裏切りや暴力の道具となり、言葉そのものが背負ってしまった傷を癒すのは難しい。けれども、わたしは、言葉の力を信じようと思う。

 最初の言葉は、おそらく「かあさん」と、母を呼んだひとことだっただろう。この言葉があったから、次の言葉が言えたのだということも忘れまい。その温もりを、遠く離れていってしまった何億もの言葉のひとつひとつの中に感じ取っていくために。

Le parole della mattina, le parole della sera - Mother Sophia

Tra le parole che uso, le parole della mattina sembrano proprio le mie. Queste parole nascono dal corpo, contengono ancora qualcosa di corporale nonostante tutto le parole siano incorporali.

Le parole perdono brillantezza avvicinando alla fine della giornata come se fossero ossidate, come noi sentiamo la stanchezza alla sera.

Negli ultimi tempi, quando ascolto le parole aggressive ed intollerabili dalla radio e TV, non posso resistere più a non turarmi le orrecchie. Le parole si sono ridotte ad uno strumento di comunicazione, un cartellone pubblicitario nelle strade. La forza dell’abitudine è spaventosa e qualche volta cerco di non avvicinarmi alla follia del genere tappando le orrecchie con le mani.

Le parole hanno perso la completezza. Le parole complete, differenti da quelle parziali, tolgono una scheggia conficata, riscaldano le mani fredde. Ma da dove nascono queste parole?

Poche persone si ricorderanno del momento in cui ha pronunciato la prima parola della vita. Quando vedono un piccolo riuscire a convertire tutte le sensazioni ad una parola, tutte le persone attorno a lui se ne rallegrano. Basta ricordarsi quelle sensazioni del parto di parole dal tutto il corpo, così uno potrebbe dare la vita alle parole. Io, per esempio, non mi ricordo bene di quelle sensazioni. Dovrebbe essere difficile medicare le piaghe che hanno avuto le parole infedeli e violente, però ho ancora la speranza nella loro guarigione.

La prima parola mia sarà stata ‘’mamma’’ per chiamare mia madre. Non dimenticherò mai che la seconda parola è riuscita a nascere perchè c’era già questa parola calda e completa. Risentirò nelle milioni di parole che si sono allontanate da me, ancora una volta una premura.